JAXAの火星衛星探査機MMX(Martian Moons eXploration)が種子島宇宙センターからの打ち上げを控えている。フォボスから少なくとも10グラムのサンプルを採取し、2031年ごろに地球へ帰還する計画だ。製造業が注目すべきは探査そのものよりも、超低重力環境への着陸を可能にした機構設計の要求水準にある。地上の設計常識が通じない環境で何を作らなければならないか、その問いへの答えが日本の宇宙製造業の実力を示す。
なぜ「着陸脚」が製造業の話になるのか
MMXの開発で特に困難だったと三菱電機のエンジニア・上原明成氏が語ったのが、フォボスへの着陸脚だ。フォボスの重力は極めて小さく、探査機が着地の衝撃ではじき飛ばされないよう、脚が衝撃を吸収しながら機体を押しとどめる設計が必要だった。
地上の産業機械では重力を設計パラメータの基本として使える。重力があるから部品は安定し、荷重計算が成立し、摩擦が機能する。だがフォボスではその前提が消える。衝撃吸収材の選定、展開機構の精度、極低温から高温に至る環境への対応、それぞれが通常の産業設計とは異なる要件を課す。
こうした機構部品の加工・組立・試験を担うのが製造業の役割であり、宇宙に参入するとはこの種の要件を受け入れることを意味する。
地上で検証できない動作条件をどう扱うか
宇宙用部品は一般に振動・熱真空・EMCといった試験を経て宇宙へ送り出される(宇宙用部品はどんな試験を受けるのか — 振動・熱真空・EMCの実務)。しかし着陸脚のように「地上では再現できない動作条件」が含まれる部品の場合、試験設計そのものが難題になる。
フォボスの表面重力は極めて低く、地上でこの環境を忠実に再現する手段はない。水中でのアナログ試験や落下試験などが代替手段として使われることがあるが、いずれも本番環境を完全に模擬することはできないと考えられる。
製造業の担当者が理解しておくべき点は以下の通りだ。
- 超低重力環境向けの機構部品は、地上での試験で「完全な検証」ができない領域がある
- 設計段階からJAXAや研究機関と仕様を共有し、検証方針を固める必要があると考えられる
- 既存の宇宙用試験規格が想定していない動作環境が存在する可能性がある
打ち上げから2031年まで — 長期ミッションが部品に何を求めるか
MMXは打ち上げから2031年ごろの帰還まで、長期にわたって宇宙空間を飛行する。その間、部品は修理も交換も受けられない。地上の産業機械であれば摩耗したベアリングを交換したり、故障したセンサーを取り替えたりできるが、深宇宙探査機では一度打ち上げれば終わりだ。
日本は2020年にHayabusa-2が小惑星サンプルを地球へ持ち帰り、2024年にはSLIM(月面着陸機)が転倒後も複数の月の夜を生き延びてデータを送信し続けた実績がある。こうした経験がMMX設計にも反映されていると考えられる。
長期ミッション向けの部品要件を地上産業と比較すると次のようになる。
| 要件区分 | 宇宙(MMX規模)での要求 | 地上産業との主な違い |
|---|---|---|
| 寿命設計 | 長期の無修理稼働 | 地上機械は定期保全が前提 |
| 熱環境 | 宇宙空間〜大気圏再突入の温度サイクル | 常温・定常環境が多い |
| 放射線耐性 | 太陽フレア・宇宙線への長期曝露 | 地上ではほぼ考慮不要 |
| 振動・衝撃 | 打ち上げ・着陸の複合負荷 | 断続的・定常的な負荷が主体 |
| アウトガス | 真空中でガスを放出しない材料の選定 | 密閉環境以外では問題になりにくい |
素材の選定や調達の実際については、宇宙で使える材料、使えない材料 — アウトガスと放射線という2つの壁で詳しく解説している。
国際競争の中で、日本の製造業はどこに立つか
MMXはJAXAが主導しながらも、フランス国立宇宙研究センター(CNES)・ドイツ航空宇宙センター(DLR)・NASA・欧州宇宙機関(ESA)および複数の大学・技術企業との国際協力プロジェクトだ。IDEFIXローバーはフランスとの共同開発であり、調達先は必ずしも日本国内に限らない。
一方、中国はTianwen-3を2028年ごろに打ち上げ、2031年前後に火星サンプルを地球へ持ち帰ることを目指している。NASAの火星サンプルリターン計画が事実上停止した現状では、MMXとTianwen-3が深宇宙サンプルリターンの二極を形成する可能性がある。
日本の製造業が参入を検討するうえでの論点は以下の通りだ。
- 国際共同プロジェクトのため、調達競争は国際規模になる
- ただし着陸脚など主要構造体には国内メーカーが関与しており、サプライチェーンの上流に入り込む余地はある
- MMXの成否は日本の宇宙製造業全体の信頼性評価につながる可能性がある
- 2026年現在、深宇宙向け部品の需要は拡大傾向にあると考えられる
まとめ
- MMXはフォボスから少なくとも10グラムのサンプルを採取し、2031年ごろ地球へ帰還する長期ミッションである
- 超低重力環境への着陸脚設計は地上の設計常識が通じない技術課題であり、機構部品メーカーに固有の要件を課す
- 長期の無修理稼働・放射線耐性・アウトガス対策など、宇宙用部品の信頼性要件は地上産業とは根本的に異なる
- MMXは国際共同プロジェクトだが主要構造体は国内メーカーが担っており、宇宙サプライチェーンへの参入実績を積む機会となる
- 中国のTianwen-3が2028年打ち上げ・2031年帰還を目指す中、MMXとの競争は日本の宇宙製造業の技術力が問われる場でもある
本記事は Phys.org の報道をもとに、編集部が製造業の視点から解説したものです。事実関係は出典をご確認ください。